ネロとパトラッシュの歩いた道〜(4)

聖母教会から川岸へ



【Melkmarkt 牛乳市場】→【Lijnwaadmarkt 薪市場】→ 【Turfbrug 燃料橋】→【Grote Markt 大市場】→ 【Handschoenmarkt 手袋市場】→【Suikerlui 砂糖通り】→ 【Stenplein 石広場】→




Melkmarkt牛乳市場(1867年の様子)

牛乳市場で 農家の人たちに頼まれた牛乳を売った後は
ネロは必ず 聖母大聖堂に寄ってから帰りました。

では Groenplaats 緑広場と反対の方から 大聖堂の正面に回りましょう。
Lijnwaadmarkt 亜麻布市場は 亜麻布が売られていた時期もありますが
別の時代には 薪を売る市場でした。
更に行くと 右に入る道がTurfbrug 泥灰橋です。
Turfは泥灰という燃料の一種で Brugとは橋のことです。
以前はここまで運河が来ていて そこに掛けられている橋のあたりで泥灰を荷揚げしていました。

そして 広い広場に出ました。
ここがアントワープの町の中心の広場 Grote Markt 大市場です。
(Grote Markt 大市場の解説は こちらのページにもあります。)

以前はもっと広かったのですが 市庁舎が建てられたので狭くなりました。
そうです 一番大きな建物が 市庁舎です。

アントワープ市庁舎(20世紀初め頃の様子)

立てられた年号が 建物の上の方に書かれています。
「1564」と。
しかし 実際に完成したのは 翌年の1565年2月27日です。
アントワープが「世界最大の商業都市」として最も繁栄した時代に建てられたもので
その繁栄を表すために ネーデルランド最大のルネッサンス建築として建てられました。
ルネッサンス建築の特色である
オベリスクや 建物に貼り付けられて半円形に飛び出している円柱 そしてローマ風の半円のアーチなどが見られますが
それと共に フランダースの建築の特色である
十字窓や 縦の垂直性(つまりルネッサンスにはなっても まだゴチックへの郷愁が強かったということです)
などもまた見て取れます。
イタリアルネッサンスとフランダースの伝統とが混ざり合っている
フランダース・ルネッサンスと呼ばれる様式になっています。
聖母マリアが幼児キリストを抱いています。
聖母マリアがこのアントワープの守護聖人です。
その下の階には 女性像が二つと 紋章が三つあります。
左側の女性像は 右手に捌きを表す剣と 左手には公平を表す天秤を持ち
この時代には市庁舎が裁判所を兼ねていたことを表しています。
右の方の女性像は 左腕に蛇を巻いています。
蛇は智慧の象徴です。智慧を持って市を治める 市庁舎としての機能が象徴されています。
建物の一階には 木の扉が並んでいます。
周囲全て合わせると 45あります。
昔はこれら一つ一つの扉の中は 店舗として使われていました。
つまり貸し店舗として家賃を取り それを建築費に当てたのです。

広場を取り囲んでいる建物は ギルドハウスです。
市庁舎に向かって右側の並びは どの建物にも最上部に金の像が載せられています。
これらが 何のギルドの建物であるかを現しています。
例えば 市庁舎から二件目の建物は 樽作り職人のギルドハウスです。
建物の近くに行くと レリーフで分かります。
その右隣り この並びで一番背の高い建物には 馬に乗り槍を持った聖ゲオルグがいます。
聖ゲオルグは 足で弓を射る射手ギルドの守護聖人です。
その右隣の建物に載せられている裸の男性像は 聖セバスチアンです。
彼は 手で弓を射る射手ギルドの守護聖人です。
この二つ以外の建物に載せられているのは 守護聖人ではなくてギルドのシンボルです。
この広場に面したほとんどの建物は 19世紀末に修復されたか 再建されたものです。

広場の真ん中には Brabo ブラボーの像がありますが
1887年にこれが建てられるまでは
「自由の木」が立っていました。
ネロは ブラボーの像は見ていません。

  さて ネロは聖母大聖堂に入って行きました。
ルーベンスの手による 主祭壇の「聖母被昇天」を見るためです。
しかし 犬のパトラッシュは大聖堂の中には入れませんので
大聖堂の前の Handschoenmarkt 手袋市場の Quinten Metsijspoort メッセイス門のそばでネロを待っていました。
(と「フランダースの犬」では書かれているのですが ここに本当に門があったわけではなく
メッセイス作の井戸があります。)


大聖堂周辺には 「市場」と名付けられた場所が多いですが
それらは 大聖堂の土地でした。
市に出る店から店子料を取って 大聖堂の収入源としていたのです。
大聖堂の前の広場はHandschoenmarkt 手袋市場ですので
一年に何度か ここで皮革製品を売る市が立ちました。
更に前は ここは大聖堂(になる前 まだ地区教会だった頃)の墓地でした。
井戸がありますが これはアントワープの画家Quinten Metsijspoort メッセイスが作ったもので
彼はここが墓地だったときに葬られましたので 墓石の複製が大聖堂の壁面にはめ込まれています。
この井戸の一番上を見ると Brabo ブラボーの像が載せられています。

(聖母大聖堂については 別ページをご覧下さい→「聖母大聖堂」


大聖堂から 川の方に出てみましょう。
Suikerlui という道を通って川の方に行きます。
Suiker=砂糖  lui=人々 という意味で
昔このあたりに 砂糖工場があったことから名付けられました。
Suikerrui 砂糖通りには 製糖工とパン焼き職人が住んでいました。

川岸に行きますと スロープがあって
一見 橋になっているのかなと思いますが
これは 川岸の遊歩道への上がり口です。
この遊歩道は 1884年に作られました。
その遊歩道の入り口の 右側を見ますと お城が建っています。
het Steen ステーン城 です。

Het Steen 石城(20世紀初めの様子)
Het Steen 石城とSteenplein 石広場


どうして「石城」なのでしょうか。
石造りだからです。
アルプスよりも北のヨーロッパ大陸 すなわちゲルマン民族の住んでいる土地は
昔はほとんどの建物が木造でした。
なぜならば ゲルマン民族は森の民族だからです。
今から千年ほど前から アルプス以北の大陸でも 石造りの建築が建てられるようになりました。
まずは どの町でも 町で一番重要な建物が石造りになりました。
つまり 要塞か教会です。
この町で一番最初の石造建築ということで 「石」と名付けられたのです。
昔からここは 川を通る船か通行税を取るための要塞があったようですが
9世紀頃には バイキングから町を守るための木造の要塞が建てられました。
更にその後 11世紀初めに石造りとなり
この町で最初の石造建築ということで Steen=石 の名が付けられました。
その後 増改築が繰り返され
16世紀に入ってから
カール五世の命により 今日の形に完成することになります。
建物の場所によって 石材が違っていて
建て増しされたのがはっきりと分かります。
部分によって 要塞として建てられたところと
16世紀に入ってからの 優雅な居城としてのところとがあります。

ネロの時代 1860〜70年代には
この城は廃城となっていました。
そのステーン城の隣は 駐車場となっていますが
以前はここには
1817年まで 聖ワルブルク教会が建っていて
そして その後は魚市場がありました。
またその周りには 木造の建物が並んでいました。
それらが 1885年の万国博覧会を機に
全て取り壊されました。
(ステーン 石城の解説は  こちらのページにあります。)

今は駐車場となっている このSteenplein 石広場は
19世紀末までは 魚市場がありました。

魚市場(1868年の様子)

そして 周りには木造の家が立ち並んでいました。

魚市場周辺の木造建築(1860年代の様子)
それらは シュケルデ川の川幅がそろえられた1878年から1884年の間に取り壊されています。
つまり ここから先 ホーボーケンに帰るこの川岸は
ネロの時代とはかなり変わってしまっています。


北の方向に(=川を右に見て)進みましょう。
遊歩道が終わると 観光バスの駐車場になっています。
更に北上すると 屋根のある乗用車の駐車場になっています。
この屋根は 駐車場のためでしょうか?
地面を見ると 所々に線路があります。
以前はここに 貨物用の線路が敷かれていました。
港で荷揚げされた貨物のための屋根です。
この屋根も1884年に作られたものです。

川岸に出ました。
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