ネロとパトラッシュの歩いた道〜(3)

アントワープ



【Kielsepoort キール門】→【Brederodestraat】→【Montignystraat】→【Amerikalei】→【Graaf van Hoornestraat】→【Leopold de Waelstraat】→【Leopold de Waelplaats】→【Volkstraat 民衆通り】→【Nationalestraat 国民通り】→【Groenplaats 緑の広場】→【Melkmarkt 牛乳市場】




Kielse Poort キール門
Kielse Poort キール門

キール門 Kielse Poortを入ると
アントワープです。

中世のヨーロッパの都市は
必ず城壁によって取り囲まれて守られていました。
(ヨーロッパでは 城壁によって囲まれていたのは「都市」であり 城壁が無いのは「村」でしたから
都市か村かの区分しかありませんでした。)
そして その城壁には 街に出入りするために
城門が付けられていました。
それらの城門は 監視塔を兼ねていましたが
町を守るために作られたものですから
通行できる開口部はとても狭く
馬車がすれ違え無いくらいの幅です。
つまり 通行するための門では無く
通行を制限するための門だったからです。

アントワープの町を取り囲む城壁は
第一次のものが1104年に作られました。
これは 9世紀に作られた要塞(今日のステーン城)を取り囲む地域で
面積は僅か19ヘクタールでした。
その後 第一次の拡張(1201〜1216)で
町の面積は40ヘクタールに拡大され
更にその後
第二次の拡張(1249〜1250)で45ヘクタールに
第三次拡張(1291〜1314)で156ヘクタールに
第四次拡張(1410)で206ヘクタールに
第五次拡張(1542)で260ヘクタールに広がり
第六次拡張(1567)で
ほぼ今日のLeien(Italielei→Frankrijklei→Amerikaleiと続く大通り)とシュケルデ川とに挟まれた部分になりました。

しかし キール門Kielse Poortはもっと後の時代に作られたものです。
1830年のベルギー独立後
1848年にベルギー政府は アントワープがベルギーの防衛に最も重要な場所であるとして
1859年から アントワープの周りに要塞と城門とを新たに作りました。
キール門Kielse Poortはそのうちの一つです。
しかし これらの城門や要塞は 結局は軍事的には役に立たず
1910年以降 取り壊されました。
1967年に町を取り囲む環状高速道路が作られたときには
城門は全て取り壊されました。
(要塞は八つ作られましたが 1977年以来 それらは公園として開放されています。)

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キール門を通って アントワープの町に南側から入ってきましたが
ここから(聖母大聖堂や市庁舎のある)町の中心までは
アントワープの町の中(旧城壁内)でも 19世紀に大きく変わった地域です。

このあたりには 16世紀末に作られた スペイン要塞がありました。
(スペイン統治時代に作られたのでそう呼ばれています。)
そのスペイン要塞は 1868年に取り壊されました。
そして その周辺も含めて 都市計画によって町作りが行われました。
ですので地図を見ると分かるのですが 町の中でもこのあたりは
広場を中心に道が方円状にきれいに伸びているところが幾つもあります。

1859年から環状要塞と城門が作られ そして1868年にスペイン要塞が取り壊されて
町の南部はどんどん作りかえられていた頃に ネロとパトラッシュは
ホーボーケンからアントワープまでを行き来していたのです。

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スペイン要塞
スペイン要塞

スペイン要塞(1572年の図)
スペイン要塞(1572年の図)

アントワープの地図
アントワープの地図(左端がスペイン要塞)

アントワープの町の南側には
1567年から1874年の間 スペイン要塞がありました。
宗教改革が始まってから
フランスで起きたカルヴァン派がスペイン領ネーデルランド(今日のベルギー/オランダ)に広まり
プロテスタントはカトリックの教会や修道院を襲っては破壊し かつ教会内の美術品を壊す聖像破壊運動を
1566年に行いました。
この混乱を収めるために スペイン国王フィリッペ二世は軍を派遣し
そして町に要塞を建てることを決めました。
つまり スペイン要塞とは アントワープの町を外敵から守るためのものではなくて
町が崩壊するのを防ぐために建てられたものなのです。
1830年のからのベルギーの(オランダからの)独立戦争では
オランダ軍が二年間ここに立てこもって戦いました。
その後1859年に 町の更に外側に 新たに八つの要塞を環状に配置することになり
スペイン要塞は軍事的には必要の無いものとなりました。
そして1874年から要塞の取り壊しが行われ
64本の道路と広場が作られ また王立美術館が建てられました。

アントワープ王立美術館
アントワープ王立美術館

王立美術館は ベルギーの建国50周年を記念して建てられたものですが
公開コンペで最初に選ばれた案は 余りに建築費がかかるということで
選び直したために建築を始めるのに時間がかかり
(独立50周年ではなく)1890年に完成しました。

美術館の入り口に立って その周辺を見渡すと 道路が整然と通されているが分かります。
斜め左に行く道を見ますと その突き当たりに門があります。
これはルーベンスがスペイン王フィリッペ四世のアントワープ入城のために設計した門で
以前は町の他の場所にあったものが1936年にここに移築されました。

美術館の周りの道路は 「画家道り」「彫刻家通り」 あるいは画家の名前など
それに関係した名前が付けられています。

美術館の前の広場は
Leopold de Waelレオポルド・デ・ワール広場と名付けられています。
Leopold de Waelレオポルド・デ・ワールは
1872年から1892年まで アントワープの市長を務めた人で
  この人の時代にこの地域を初めとして
アントワープの旧市街の再開発が行われました。
その栄誉を称えるために この広場に彼の名が付けられています。
王立美術館の向かい側には 1903年から1973年の間
Hippodroompaleisヒッポドローム宮殿という劇場が建っていました。
サーカスが催されたり ミュージカルが演じられたり あるいは政治的集会などが開かれる多目的ホールでした。

Hippodrome(Antwerpen)
Hippodrome ヒポドローム


この辺りは 過去に万国博覧会が開かれた会場跡地でもあります。
アントワープでは 1885年と1894年と1930年の三回 万国博覧会が開かれましたが
そのうち 1885年と1894年の時に このあたりが会場敷地となりました。。

万国博覧会(1885) 万国博覧会(1994年)

1894年の時には 上記の王立美術館も会場となっています。
テーマは 最新の技術や産業だけではなく
「植民地」「海洋」「フランダースの芸術」などで
特に人気があったのは「フランダースの古い町並み」です。
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更にアントワープの街の中心向かって歩いて行きましょう。

Volkstraat人民通りを行くと 左側にアール・ヌーボー様式の建物があります。

Help u zelve

「Help u zelve 自分自身を助けよう」という名の建物です。
今はシュタイナー学校として使われています。

十字路で右側を見ますと 大きな記念碑があります。
「Schelde vrijシュケルデ開放記念碑」です。
シュケルデ川は 1585年からオランダによって閉鎖されていました。
その閉鎖が解かれたのは フランス統治の時代 1792年です。
しかし ベルギー独立後はオランダが関税権を持ったことによってベルギーの船は通ることができなくなり
1863年にベルギー政府が関税権をオランダから買い戻したことによって
やっと船が自由に通れるようになりました。
その1863年のシュケルデ川の開放を記念したものです。
しかし完成したのは1883年ですので ネロは見ていません。

次の交差点(Volkstraat/Geuzenstraat/Kronenburgstraat/Nationalestraat)は
以前16世紀後半に建てられた城壁があったところです。
ここの城門は Begijnenpoortベギン門と名付けられていました。
13世紀に ここにベギン会があったからです。
このBegijnenpoortベギン門は主に
キールやホーボーケンの農民たちのためのものでした。


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ここから先は Nationalestraat国民通りと名付けられています。
19世紀後半に付けられた名前です。
この道は1878年から1880年にかけて 「パリ風の大通りを作る」ということで
道幅を広く作りかえられました。
そして 国家意識・国民意識を高揚させるためにこの名が付けられました。
ですので 公的なイベントの時にはこの道を通ることになりました。

Nationalestraat(Antwerepn)
Nationalestraat 国民通り

この道に入った右側の角は 熱帯病研究所です。
ベルギーはアフリカのコンゴに植民地を持っていました。
そこでの熱帯病を研究するための機関として始められました。
コンゴは1980年に独立して もうベルギーは植民地を持っていませんけれども
ここでの熱帯病の研究は続けられています。

この道を進んでいったところの Modenatie については
アントワープの主な産業のページのファッションの項でご覧下さい。

Modenatie(Antwerpen)


十分ほどもNationalestraatを歩くと 前方に大聖堂の塔と 広場が見えてきます。
Groenplaats 緑の広場です。
ここはそもそもは 大聖堂の墓地でした。
その頃は  Groenkerkhof 緑の墓地と呼ばれていました。

Groenkerkhof(Antwerpen)1510
Groenplaats 緑の広場(左から 1510年頃/1515年頃/1910年頃)

オーストリアのヨゼフ二世統治の時代の1784年に 城壁内から全ての墓地を撤去することになり
ここは広場となりました。
その後 フランス革命の後のフランス統治時代には「平等広場」と改称され
更に後 ナポレオン統治時代には「ボナパルト広場」と名付けられました。
しかし ベルギーが独立してから Groenplaats 緑の広場となりました。
広場の真中に立っているのが ルーベンスの像です。
1840年に彼の没後200周年を記念して像を建てることになりました。
しかし 資金不足から銅像を作ることができず
とりあえずは仮の石膏像が作られて 川岸に置かれました。
三年後にやっと銅像が完成して この広場に置かれました。

画家として非常な名声を得たルーベンスですが
この像では 絵を描く道具は足元に置いています。
彼は外交官としても活躍しましたので
ベルギーを代表する名士としての姿で立っているのです。


右を見ると Hilton Hotelがあります。
この建物はそもそもは Glande Bazarというデパートでした。
19世紀末から 20世紀初めにかけては デパートの全盛期だったのです。
デパートが1990年代初めに廃業してからは 一部はホテル 一部はショッピングセンターとなっています。

Groenplaats 緑の広場を通って 右側のHilton Hotelの入り口の側へと行きます。


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ネロとパトラッシュの目的地 Melkmarkt牛乳市場に着きました。

Melkmarkt牛乳市場(1867年の様子)

ここは 14世紀からすでに 乳製品を売るための市が立った場所です。
以前はここには 井戸があって
農婦の像が立っていました。

Melkmarkt牛乳市場の農婦の像


ここから 大聖堂の方を見上げてみると 庭園のようになっています。
大聖堂の中庭なのです。
聖母大聖堂は 1521年に完成したことになってはいますが
実は 今の三倍の面積に拡張する計画があったのです。
1521年に 基石が置かれて拡張工事が始まりましたが
1533年に大聖堂が火事になって かなりの被害を被ったために
増築のための資金がなくなってしまいました。
ということで 拡張されずに今の広さとなっているのですが
しかし 柱を立てた その跡は今でも残されています。
そして 地面から8mの高さにある空中庭園は その時の拡張工事で広げられた唯一の部分にあります。

さて ネロとパトラッシュは ホーボーケンの農家から預かった牛乳をここで売ってしまえば
その日の仕事は終わりです。

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