アントワープ〜簡単な歴史




旧市街からローマ時代のもの発掘されています。
あるいは川岸からはもっと前の人骨も発見されています。
二千年以上前から川沿いに人が住んでいたと推定されています。

7世紀頃にアントワープ周辺にキリスト教の宣教に来た
聖アマンドゥス Amandus(595〜676)という人がいますが
この人の書いた文献に Caloesという地名が記されています。
アントワープは ごく初期の集落は今の町の中心よりも南に位置していて
そのあたりは Caloesと呼ばれていました。

今のアントワープとホーボーケンとの間に
キール Kielと呼ばれている地域がありますが
そのCaloesが変化してKielになり 町が北の方に広がっていく過程で
Antwerpenが町の名となり Kielは地域の名として残りました。

7世紀頃から キリスト教化が進みます。
初めて文献に出てくるのは726年です。


836年に ヴァイキング(ノルマン人)の襲来を受けます。

11世紀末に ブラバント公領となり 神聖ローマ帝国(の中の東フランク王国)に属することになります。
毛織物産業よって発展し
1291年に 都市権が認められます。
14世紀以降 急激な成長を遂げます。
1315年にハンザ都市になり
1430年に ブルゴーニュ家の支配下に入り
1477年からは ハプスグルク家の支配下に入ります。

ブルージュの繁栄が決定的に終わりになると
ブルージュから移ってきた(多数の外国人を含む)商人・職人たちによって
繁栄が加速され
16世紀に入ると 港/毛織物産業/ダイヤモンド産業/出版業などよって
ヨーロッパにおける最も重要な商業都市・金融都市となります。
しかし スペイン系ハプスブルク家の統治に移った1556年以降
新教・旧教の対立から その繁栄に陰りが見え始めてきます。
1566年には新教徒による聖像破壊運動が起きて 街中の教会の美術品が大量に破壊されました。
スペインから派遣されたアルバ公 Alvaと のちのファルネーセ Alessandro Farneseによる新教徒への弾圧で
町の繁栄は決定的に終わることになり
新教徒と大多数の商人・職人たちは オランダへと移住していきます。
1574年11月4日に街に駐屯していたスペイン兵による大暴動(虐殺・強姦・略奪・放火)が起き
1585年8月17日には 「アントワープ最後の日」が訪れます。

経済活動は停滞しましたが 17世紀前半にはまだ文化面では繁栄が続き
ルーベンスをはじめとするアントワープの画家たちによって
バロック絵画の繁栄期が築かれます。
また 楽器制作(スピネット/チェンバロなど)や 高級家具作りなどもこの時代には盛んでした。

しかし 1648年のウェストファーレンの講和によって
シュケルデ川が閉鎖されたために商船は通れなくなって 港は使えなくなり
経済活動に決定的な終止符が打たれました。

19世紀初めのナポレオンの統治時代に
ナポレオンは(イギリスを攻めるための)アントワープの港の重要性を見抜き
新たに港を開発させます。
シュケルデ川の閉鎖が1863年に解かれると
アントワープの港は再び急速に発展していきます。
1860年代には 町を取り囲む要塞が作られます。
(この内の幾つかは今でも残されていて 公園等になっています。)
1870年代以降 街は急速に工業化されていきます。

また この頃から
東欧から来たユダヤ人たちによって アントワープのダイヤモンド産業が再び盛んになります。

1873年から1934年にかけて
ベルギー人20万人を含むおよそ260万人の移民が
ヨーロッパからアントワープを出航する船(Red Star Line)でアメリカに渡っていきました。
(この中には アルベルト・アインシュタインや バルトーク・ベラも含まれています。)


1885年と1894年に万国博覧会が開かれました。
1920年に 第七回オリンピック大会が開かれました。
1930年に再び万国博覧会が開かれました。

第一次世界大戦と 第二次世界大戦では
港が軍港として使われたために空襲を受け被害を被ります。

第二次世界大戦後は
港が拡大され
ダイヤモンド産業も盛んになり
アントワープは フランダース地方において
もっとも経済的に豊かな町へと発展していきます。


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