小説「フランダースの犬」のテーマ




小説「フランダースの犬」によって
作者ウイダは 何を表現し何を私たちに伝えたかったのでしょうか?
この小説には どういうメッセージが籠められているのでしょうか?

この物語には 主に三つのテーマが含まれているようです。
【1】 動物愛護/人間と動物との関わり合い方
【2】 才能を認め合う
【3】 本当の幸せとは


☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


動物愛護/人間と動物との関わり合い方


この小説の第一のテーマは 「動物愛護」
あるいは「人間と動物との関わり合い方」ではないかと思われます。

作者ウイダは 動物愛護にとても力を入れていました。
彼女は 動物を大切にしない人たち 虐待する人たちを相手取って
幾つもの訴訟を起こしました。
そして 多い時には30匹以上の犬と一緒に暮らしていました。
それらの犬には 専用の厨房で作った特別の料理を食べさせ
まさに「犬御殿」での生活をさせていました。
また イタリアでは 動物愛護教会の設立に尽力しました。
そういうウイダがフランダースで見たものは
荷車を牽かされる犬たちでした。
そして 働かせている犬たちに対して
それ相応の愛情と報いとを与えるどころか
それと逆に ただ酷使するだけという
それはウイダにとっては 虐待以外の何ものでもなく
人間として許しがたい行為でした。
人間が 自分たちの都合のためだけに動物を利用する という
その様な人間と動物との関わり合いは
ウイダにとっては考えられないことでした。

パトラッシュは 瀕死の状態から助けてもらった感謝の気持ちから
自らの意思で荷車を牽くことを選びました。
そして そのパトラッシュの働きに助けられて
ネロは牛乳運びの仕事をすることができ
そのようなパトラッシュをとてもいたわっていました。
ネロとパトラッシュとの間にあったものは
主人としての人間と 働かされる犬 という関係ではなく
この地上で同じように生命あるものとして
信頼し合い 助け合い 分かち合う関係でした。

ウイダが思い描いていた 人間と動物との関係とは
まさにそういうものでした。
ですので 彼女の生地に立てられた記念碑にこの様な碑文が刻まれています。

《ここで彼女の優しい魂は 彼女の愛した動物たちが水を飲むように 神によって癒されるでしょう》

人間と動物とが お互いに心を 魂を癒し合う
それが彼女が望んでいた人間と動物との関わり合いだったのでしょうか。


このページの初めに戻る

☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


才能を認め合う

もう一つのテーマは
「才能を認め合う」ということではないかと思われます。

ネロはなぜ死んだのでしょうか?
大聖堂で死んだのは飢えと寒さのためでしたが
なぜそのように死ななければならなかったのでしょうか?

ネロには 絵を素晴らしく描く才能がありました。
そして 優れた画家となる夢がありました。
素晴らしい絵を描くことによって 人々に感銘を与え
かつ 若い芸術家たちを援助したいという夢を持っていました。
けれども ネロの身の周りの人々は
それを認めませんでした。それを受け入れませんでした。

ネロの持っていた天賦の才能も 彼の夢も
あるいは 彼の存在そのものが
ただ彼が「貧しい」というたった一つの理由で
認められませんでした。

しかし
本当に 貧しかったのは 誰なのでしょうか?
ネロなのでしょうか? それとも 彼の身の周りの人たちなのでしょうか?
ネロは 全てを受け入れていました。
自らが貧しいことも 他人から受けるどういう扱いでも
彼は受け入れていました。
しかし 逆に 人間をも 物事をも受け入れられなかった一人が
コゼツ旦那です。
ただ「自分の都合」「自分の利益」「自分の幸せ」だけに心が囚われて
他人を認めることができず 他人を生かすことができず
逆に殺してしまったのが彼でした。
また 村の農家の人々が コゼツ旦那の顔色を伺い ネロに冷たくしたのも
「自分の身を守る」ことだけに心が囚われていたからでした。
これこそが「貧しさ」です。
これが貧しさでなくて一体何なのでしょうか。
目に見える 「もの」の量でしかものごとを捉えられない
目に見える「もの」を多く持っているのが「豊かさ」だと思い込んでいる
それによって ものごとの真実の姿を見られないでいる人間こそが
「貧しい」人であり
自己保身のために 他人の価値を認めることも 他人に与えることをも拒む人こそが
「貧しい」人である という
これが ウイダが私たちに伝えたかったテーマではないかと思われます。

私たちの誰もが
その人なりの才能を持っています。
その人なりの長所を持っています。
その人なりの個性を持っています。
私たちは 誰もが本来は そのように豊かな存在です。

自分のなりの才能を充分に発揮し
自分のなりの長所を充分に発揮し
自分のなりの個性を充分に発揮し
そうすることによって 他人に益をもたらすこと
そして自分が関わる人が そう生きられるように接すること
それこそが「豊かな生き方」ではないか
とウイダは訴えているのではないでしょうか。
そして 逆にそれをしない人が
この世の中には余りにも多いことを
特に キリスト教徒でありながらそれをしない人々のことを
告発しているのではないでしょうか。
キリストの説いた教えを理解せず 実行せずに生きている人々のことを
ネロを「キリスト降架」の絵の下で死なせることによって
訴えたかったのではないでしょうか。

キリストは なぜ磔になって死んだのでしょうか?
彼の伝道生活は その死によって僅か三年で終わりを遂げます。
彼の説いた「愛の教え」を理解できる人が余りにも少なく
彼の説いた教えがその当時の人々には役立たされずに 彼は死ぬことになります。
そのようなキリストの死と
持って生まれた絵の才能を誰にも見出されること無く死んでいったネロの死とは
重なり合っているのではないでしょうか。

キリストの説いた「愛の教え」は
その後 彼の身の周りにいた人々によって
後世へと伝えられていくことになります。
しかし ネロがこの世に生きたことは
どう生かされるのでしょうか?

それを生かすのは 私たちです。
「フランダースの犬」という小説に触れた私たち一人一人が
そこに籠められた作者ウイダの気持ちを感じ取り
そこに籠められたメッセージを読み取り
私たちの生き方に反映させていくこと
それこそが ネロの死を無駄にせず
ネロがこの世に生きたことを価値あるものとして生かすことになるのではないでしょうか。


このページの初めに戻る

☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


このように書くと
あたかもネロやパトラッシュが実在であったかのようですが
実在したにしろ(つまり実話として書かれたにしろ) あるいは
実在しなかった(フィクションとして書かれた)にしろ
この小説が私たちに訴えかけてきていることは同じではないでしょうか。
もしも 実話か作り話かにこだわり その作品の価値に違いがあるかのように思う人がいたらば
多分 大事なことを忘れているのではないでしょうか。
それは
絵画も彫刻も音楽も文学も建築も
全ての芸術作品は「つくりもの」であることを。
しかし その「つくりもの」である芸術作品は
一体なぜ作られたのか それは
「メッセージ」としてです。
その作品に触れた人々に 何かを伝え訴えるためにです。
もし 何かの芸術作品に出会ったとしても
そこから何も受け取ることが出来なかったらば
それは本当に出会ったことになるのでしょうか?
本当に見たことになるのでしょうか? 聴いたことになるのでしょうか?
芸術作品からメッセージとして発せられているものを感じ取り
それを私たち一人一人の人生に役立てることが出来たらば
それこそが 偉大な芸術家たちが私たちに望んでいたことであり
彼ら芸術家たちは
そのような願いを 祈りを籠めて 素晴らしい芸術作品を作り出そうとしているのではないでしょうか。


このページの初めに戻る

☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★

本当の幸せとは

この小説「フランダースの犬」のもうひとつのテーマは
「本当の幸せとは何か?」という問いではないでしょうか。

ネロにとって その生活は苦しいものだったのでしょうか?
辛いものだったのでしょうか?
多分彼は その生活を ただ「そういうもの」として受け止めていたのではないでしょうか?
確かに もっとお金があれば
病気のイェハンおじいさんに栄養のあるものを食べさせてあげることができたでしょう。
大聖堂のルーベンスの絵を見ることができたでしょう。
絵を描く道具を買うことができたでしょう。
絵を誰かに習うことができたでしょう。
でも お金が無くても それをただ 「そういうもの」として受け入れていました。

その反対がコゼツ旦那です。
クリスマスの前日 全財産を入れた鞄を落とし
それが見つからなかった時に 彼は
「これで何もかもがおしまいだ」と嘆きます。
ネロは お金が無いからといって「これで全てがおしまいだ」とは思いませんでした。
では どういう時に「全てが終わりだ」と思ったのでしょうか?
それまで住んでいた小屋を追い出され
絵のコンクールに落選し
飢えと寒さで大聖堂のルーベンスの「キリスト降架」の絵の前に倒れた時にそう思いました。

「一緒に死のう。みんな ぼくたちに用はないんだよ。ぼくたちは二人っきりなんだ。」

ネロはなぜ こう思ったのでしょうか?
住まいや 収入の道を失ったからこう思ったのでしょうか。
ネロにとっては 何かを持っていないことや 食べていくことができないことではなく
人々の心の貧しさ 心の冷たさを感じ
その様な世の中では
自らの才能を生かすことができず
自分の思い描いていた夢を実現できない
と思ったときに 「全てが終わりだ」と思ったのでした。

そして 月明かりに照らされた「キリスト昇架」と「キリスト降架」の絵を見た時に
「もうこれで充分です」と彼の心は満たされます。
自分たちは 天国に還れ 天国でも一緒にいられる という希望と共に。

この世に生きながらえるよりも 死の方が二人にとっては慈悲でした。
死は 愛に報いず信頼に答え無いこの世から
愛に忠実な犬と 無垢な信頼の心を持った少年を
永遠に連れ去って行ったのでした。



ネロは 不幸に死んだのでしょうか?
それとも 幸せに死んだのでしょうか? 




☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


このページの初めに戻る


トップページへ
目次へ
前のページへ
次の項目へ