アメリカでの表現





アメリカでは
この物語は 今までに五回映画化されています。

A Dog of Flanders (1914) 監督 Howell Hansel

A Boy of Flanders (1924) 監督 Victor Schertzinger

A Dog of Flanders (1935) 監督 Edward Sloman

A Dog of Flanders (1960) 監督 James B. Clark

A Dog of Flanders (1999) 監督 Kevin Brodie


そのいずれもが(アニメでは無い)実写版ですが
いずれもが 原作の通りではなく
結末の部分で大きな変更が加えられています。
ネロとパトラッシュとが 死なずに生き続けるのです。
この様な変更がなされているのには
それなりの理由があります。

アメリカの文化とは
「この世での成功だけが重要」だという考え方の上に成り立っているからです。


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アメリカ合衆国は
ヨーロッパから渡った 「清教徒」によって始まった国です。
清教徒とは プロテスタントの中の一つの宗派「純粋派」の人々ですが
つまり アメリカ合衆国は
キリスト教国であり プロテスタントの国です。
宗教改革が起きた北ヨーロッパの中でも
ドイツとスカンジナビアでは マルティン・ルターによるルター派(日本ではルーテルと言っています)が
フランスでは ジャン・カルヴァンによって始まったカルヴァン派(イギリスではカルヴィンと言っています)が広まりました。
そのカルヴァン派は スイスや ベルギーやオランダにも広まりました。
カルヴァン派が広まっていた(今日の)オランダ・ベルギーは
その当時この地方を治めていたスペイン国王によって
カトリックで治めるという方針の下 弾圧が行われました。

イギリスにおいては ヘンリー八世の離婚問題から
カトリックから独立し (教義としてはカトリックの)英国国教会という形をとっていましたが
カルヴァン派は 更に海を渡って イギリスにも広まり
英国国教会との対立から 純粋派が生まれることになります。

オランダ人とイギリス人とアイルランド人とが乗った
メイフラワー号がアメリカ大陸に渡って行って
その後のアメリカ合衆国の礎を築きますが
つまり アメリカの基になっているのは
基本的には カルヴァンの思想です。
「人間は この世で神の意思を体現すべく 生き 労働する」
というものであり
「職業は神から与えられたものである」として 得られた富の蓄財を認めました。
つまり
「お金儲けをすることによって豊かになるのは 神の意思であり 神の豊かさを表すことになる」
という考えです。
この思想は 当時商業活動によって栄えていた地域で 中小商工業者から多くの支持を得て
資本主義の幕開けを思想の上からも支持するものになりました。
特に 行動力があり 商売熱心であったオランダ人には受け入れやすい思想でした。

そもそも キリスト教カトリックは
「金儲け」「金持ちになること」をいけないことだとしていました。
これは 新約聖書の中のキリストの言葉を根拠としてます。
「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことであろう。
富んでいる者が神の国に入るよりは 駱駝が針の穴を通る方が もっとやさしい。」
という言葉です。
それによって キリスト教カトリックは
金儲けをする人たちに対して
天国に行きたければ 稼いだ「不浄」なお金を教会に納めて浄化するように勧めました。
(キリスト教カトリックにとっては 非常に巧みな かつ効率の良い金儲けの方法です。)
このようなカトリックの教えに対して
カルヴァンは 金儲けは神の意思だとしたのです。
この
「お金儲けをすることによって豊かになるのは 神の意思であり 神の豊かさを表すことになる」
考え方が アメリカに渡って行き
19世紀から20世紀にかけての
アメリカの資本主義国としての繁栄の基となります。

カルヴァンの思想のもう一つの柱は
「予定説」です。
「死後 人間が救われる(天国に入れる)か 救われない(地獄に落ちる)かは
この世での生き方によるのではなく
神によってすでに決められている」
という考え方です。
(この考え方は カルヴァン独自のものではなく
彼の前に14世紀半ばのイギリスのジョン・ウィクリフ
15世紀はじめの ボヘミアのヤン・フス
そして16世前半のドイツの マルティン・ルター
などによっても説かれています。)

だとしたら この世での生き方は
何の役にもたたないことになります。
この世でどう生きようとも
天国に行けるか 地獄に落ちるかが決められているのだとしたら
善行をする意味は無くなります。
しかし 誰も 地獄に行きたくはありません。
ですから 多くの人が
「自分は本来 神によって天国に行くことが決められている人間なのだ」
と思い込んで生きることになります。
「数多くの人々が懲罰を予定されている中で 我々だけが神の聖油を受けた者であり
あらゆる困難に打ち勝って成功することこそ その証しである」と思い込み
「富と権力とを得ることは 世俗的野心ではなく
神からの道徳的義務であり 恩寵の証しであり 彼岸への保証である」と信じることになります。
つまり それを確信するために 神から与えられた職業に専念して お金儲けを一生懸命にします。
これが 今日のアメリカ文化を作っている もう一つの点です。
世界的な調査では
大抵の国で
天国の存在を信じている人と
地獄の存在を信じている人の割合とは
ほぼ 同数です。
しかし アメリカ合衆国のみは
天国の存在を信じている人が九割いるのに対して
地獄の存在を信じているのは 僅か一割しかいないのです。
「自分(たち)は 選ばれた人間だ」と思い込んでいることの現れでしょうか。
とても楽観的なのです。

しかし 人間は 死んでから
本当のところどうなるのでしょうか?
この非常に大切な(誰もが気にする)問いに対して
キリスト教は明確に答えてはいません。
「死後 人間の魂は仮の場所に行って
そこで最後の審判を待ち
いつの日にか下される最後の審判によって
天国に行くか 地獄に行くかが決められる」
という説明をしてきました。
これは イエス・キリストから来たものではありません。
こういう説明をするようになったのは 四世紀末に
キリスト教が政治と結びついて 今日の形になってからです。
この時に 今日の新約聖書が編纂されました。
そして それまでに有った 様々な福音書の中から
(今日の)四つの福音書のみを採用して
他の全てを異端として破棄しました。
そして 採用された四つの福音書にも
多くの改変がなされました。
(第二次世界大戦後続々と発見された
「死海文書」「ナグ・ハマディ文書」「トマスによる福音書」
「マグダラのマリアによる福音書」「ユダによる福音書」などが それを証明しています。)
改変の特に重要な点は
輪廻転生に関する記述を全て削除したことです。
人間は この世に幾度となく生まれ変わってきているということに関する記述を全て削除し
それらを扱っている文書を破棄し
それらを信じている人々を弾圧ました。
そして
人間は生まれながらにして「罪人」であって
その罪を贖うために労働し生きている
としました。
それによって
全ての人を (政治と結びついた)宗教に縛り付けておくためです。
罪人なのだから 教会に行って懺悔し 献金しなければならないのです。
輪廻転生を否定したことによって
人間は 「肉体」「心」「魂」という
三つによって構成されている生命体であるという考え方も
否定されることになります。
そもそも 「三位一体」とは
人間は この「肉体」「心=精神(幽体)」「魂(霊体)」からなる生命体である
ということを言っていたのですが
生まれ変わりを否定したことによって
キリスト教は
「あの世」というものが分からなくなりなりましたから
(というよりも 説明できなくなりましたから)
三位一体も
「精霊」「(神の一人子)キリスト」「父なる神」
のことを言うようになりました。
(しかし この三つは「三位」ではありますが 「一体」ではありませんから
かなり無理な説明だということになります。)
そして 死後のことが分からないですから
人間の関心は 当然
「この世」でのことに集中します。
そして (死から 死後へと繋がらないですから)
「どう死ぬか」ということも 意味の無いことになります。



アメリカ文化を作っているもう一つのものは
「自由」
という思想です。
これも オランダとイギリスから入ってきました。
カルヴァン自身は 「自由」ということを認めていませんでした。
彼が統治していたジュネーブでは
市民の全てが 彼の決めた全てに従わなければなりませんでした。
そして 従わなかったとして沢山の人が処刑されました。
しかし 彼の死後には
「運命予定説」から この世でどう生きても
天国に行くか 地獄に行くかは変えられない という考え方によって
この世でどう生きても良いんだ という「自由」の考え方が広まって行くことになります。
そして その「自由」には
「責任」というものが 伴わないものになってしまいます。
なぜならば どう生きても 死後に関しては同じなのですから。



「平等」という思想も
アメリカ文化で重要なものです。
これは 中世のヨーロッパにおいて広まったものです。
中世のヨーロッパにおいては
疫病が幾度となく広まり
その度に沢山の人が死にました。
国王でも農民でも 貴族でも商人でも
金持ちでも貧乏人でも
誰でもが 疫病にかかれば
簡単に死んで行きました。
そこから 「(死の前には)誰でもが平等である」
という考え方が広まることになります。
また キリスト教プロテスタントの
全ての人の身分/職業/貧富などは 神から与えられた運命であって
神の下には 全ての人が平等である
という考え方と相まって
これが更に後の
(国を治める王権は 神から与えられた神聖なものであり 聖職者の位よりも高いものである とする)
王権神授説の否定や
フランス革命による王政の廃止へと
繋がっていくことになります。
そして 移民によって作られたアメリカという国は
どこから来た人間であれ 平等である
という建前でした。
(先住民族=インディアンや 黒人奴隷に対してはそうは思わなかったようですが)



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この様に
アメリカの文化とは
☆(キリスト教による輪廻転生の否定から)死後のことが分からない→この世が全て
☆(カルヴァンの思想から)お金儲けは神の意思
☆ (「運命予定説」から出た)「自由」という思想
そして 「平等」という考え方によって 

「自由と平等のこの世で (責任を伴わずに自由に生き)いかに努力してお金儲けをしたかが 人生の価値となる」
という考え方となっているのです。


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その様な考え方のアメリカ人にとって
「フランダースの犬」に描かれている
ネロの生き方は
どう見えるのでしょうか?
あるいは ネロの死に方は
どう見えるのでしょうか?

「自由と平等のこの世の中で 貧しい生活に甘んじていた」
「画家になりたい夢は持っていても そのために必要な努力をしなかった」
「夢を果たせない絶望から 死を選んだ」
というように見えるのではないでしょうか。
それでは 「成功者」ではないのです。
アメリカでは 人間としての価値は
「成功者」にあって
(子供向けの)物語は 成功者を描いたものでなくてはならないのです。

だからこそ
死ぬ訳にはいかないのです。
死んでしまった終わりなのですから。
死なないで 「成功」する必要があるのです。
そうでなければ アメリカでは「話にならない」のです。

ですから
アメリカで作られた映画は
全て
ネロとパトラッシュは死なずに 生き続けます。
あるいは ネロは 絵のコンクールで優勝します。
あるいは アロアと結婚します。
それでこそ「成功者」であって
そうでなければ 描かれる意義は無いのです。


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「愛に報いず 信頼には答えないこの世から
死は 愛に忠実な犬と 固い信頼の心を持った少年を連れ去っていったのです」

という文章によって
作者ウイダは
その様な「愛に報いず 信頼には答えないこの世の中」を作っているのは
まさに私たち一人一人なのだ
ということを訴えたかったのではないでしょうか?
そして それで良いのですか?と問うているのではないでしょうか?
そして それを違うものにするのは 私たち一人一人なのだ
ということを言いたいのではないでしょうか?

しかし アメリカ人は そうは思わないようです。
その様な 愛に報いず 信頼には答えないこの世の中であっても
その中で「成功者」となることが重要なのです。
あるいは
愛に報い 信頼に答える世の中を作ることよりも
「自分が」成功者になる方が重要なのです。

アメリカ合衆国が
19世紀から20世紀にかけて
資本主義の世の中で「大国」となることができたのは
この様な思想の人々が集まっていたからです。
そして その人たちが選んだ大統領は
当然のことながら その様な思想の代表者となります。
アメリカ合衆国が
20世紀の初めから 今日に至るまで何をしてきたのか
あるいは 歴代のアメリカ合衆国大統領が何をしてきたのか
それらは全て
このような国民の意識からきているわけです。

そして その意識で
「フランダースの犬」を(自分たちに都合の良いようにと)作り変えているのです。


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付記:ルターとカルヴァンの思想の違い

ルターの考え方
パウロのローマ人への手紙「義しき人は 信仰によって生きる」から
聖アウグスティヌスの思想を引き継ぎ
「神の恩寵への道を開くのは 祈りでも善行でもなく 信仰だけである。
そして 信仰は 神のみがそれを与えることができる。
だとすると 神はその羊の群れの中から 救うべき者と 罰するべき者とを 選別しておられる。
全ての人は すでにその運命を定められて この世に生まれ出てきており この運命を変えることはできない。」
「聖書こそが最高の権威であって 聖職者は自己の権威をその上に置くことはできない。」
「どのキリスト教徒も 洗礼によって聖化され 自己自身の司祭となる。」
「人間は誰でもが罪の子で 罪を免れる人は一人もいない。」
「ヒューマニズムがなすりつけた異教徒文化の泥から キリスト教を洗い清め 再生させる。」
というものでした。
ルターの宗教改革は
ローマを中心としたキリスト教カトリックの教義や規則や儀式への反発と
世俗権力と結び付いた権力欲と金銭欲
そして 聖職者たちの堕落した生活への反感から始まりましたが
その当時の(まだ統一されていなかった)ドイツにおいて
政治・階級闘争と結び付いて広まりました。
また 聖書のドイツ語訳や 賛美歌によって
ドイツ民族の民族意識の向上と結び付いて広まりました。
しかし 人間は罪の子であるという意識は強く
かつ この世での生は 仮のものであるという意識とも相まって
観念的であるともいえます。

カルヴァンの考え方
「人間の運命は 生まれる前から定められているものであって
祈りや善行で 運命を変えることはできない。
しかし 祈りや善行は義務なのであって 救われるか救われないかに関わらず
その義務は果たさなければならない。」
「真の教会は 恩寵を予定された人びとだけの共同体であるが
誰がその予定された人であるかは 我々には分からない。
そこで 同じ信仰によって結ばれ その信仰を実践し
洗礼と聖餐とに参加する人々の集団としての教会が必要になり
この教会は キリスト教社会の風俗・道徳・良心・霊魂の整頓を神から委託されているからにして神聖であり
世俗の権威=国家は この教会に服従し 腐敗や偶像崇拝から教会を守るための盾にならなければならない。」
「神以外に どんな司祭もいない。」
「祈りはどんな救いももたらさない。
家庭や職場が修道院であり
消費よりも生産が多かったこと 使ったよりも多く貯金したこと
楽しんだ分よりも多く苦労したことを
日々 神に報告しなければならない。」
「財産は神の恩寵であり 富める者が選ばれし者である。」
カルヴァンの考え方は
現実的であり 行動を重視するものでした。
そのために 商業活動が盛んだった地域で広まり
このカルヴァンの思想が 後の
資本主義社会を産んでいくことになります。


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