ルーベンスの履歴




これは ルーベンス自身によって 死の12週前に書かれた履歴書の訳です


☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


個人情報
姓:Rubens リュベンス [i]
名:Peter Paulペーテル・パウル
ただし異なった綴りとして:Petrus Paulus [ii]、Pieter Pauwel [iii]、Pedro Paulo [iv]、Pietro Pauolo [v]
住所:Wapper 9-11、Antwerpen アントウェルペン市ワッペル9-11
出生日:1577年6月28日 聖ペテロと聖パウロの祝日
出生地:神聖ローマ帝国ウェストファーレン ジーゲン、アントワープから300km
両親 [vi] :ヤン・リュベンスJan Rubens(1530〜1587)と マリア・パイペリンクMaria Pypelinck(1537〜1608)
彼らの七人の子供のうちの六番目
ケルン滞在:1578年〜1589年
スペイン王国領ネーデルランド(アントウェルペン)滞在:1589年以来、父ヤン・リュベンスの死の二年後から
市民身分:既婚
・・・Isabella Brant イザベラ・ブラント [vii]と(1609年から亡くなる1626年まで)
・・・Helene Fourment エレヌ・フルマン [viii]と(1630年以来)
子供:
・・・イザベラ・ブラントとの間に クララ・セレナ(1611〜1623)/アルベルト(1614生まれ)/ニコラース(1618年生まれ)
・・・エレヌ・フルマンとの間に クララ・ヨハンナ(1632年生まれ)/フランス(1633年生まれ)/
イザベラ・ヘレナ(年生まれ)/ペーテル・パウル(1637年生まれ)


学歴
1589年 ラテン語学校(七つの自由芸術)
1591〜92年 後期技巧派風景画家 トビアス・フェルハーフト Tobias Verhaechtの下で修行
1592〜94年 歴史画・肖像画家 アダム・ファン・ノールト Adam van Noortの下で修行
1594〜98年 アントワープで最も才能ある オットー・ファン・フェーン Otto van Veenの下で修行
1600〜08年 イタリア留学
・・・同時代の巨匠 カラッチとカラヴァッジョ
・・・ルネッサンスの巨匠 ティチアーニ/ティントレット/ヴェロネーゼ/ラファエロ/ミケランジェロ
・・・マントヴァ公ヴィンセンゾ・ゴンゾーラと スペイン王フィリッペ三世の絵画コレクション
・・・ギリシャ・ローマ古代文化の彫刻
・・・ルネッサンス建築
に触れ 学ぶ


職歴
1598年 アントワープの聖ルカギルドに 親方画家として登録
1598〜1600年 オットー・ファン・フェーンの工房にて自由画家
1600〜1608年 マントヴァ公ヴィンセンゾ・ゴンゾーラの宮廷画家
1608年 アントワープ市画家
1609年 アントワープで自らの工房を開設
1609〜1621年 スペイン王国領ネーデルランド統治者アルブレヒト公とイザベラ妃との宮廷画家
1621〜1633年 アルブレヒト公の没後 イザベラ妃の宮廷画家
1636〜1640年 スペイン王国領ネーデルランド統治者枢機卿フェルディナンドの宮廷画家


訪れた国
イタリア・・・1600〜1608年の間滞在
オランダ・・・>1612年以来数回
フランス・・・1620年代に複数回 マリア・デ・メディチからの注文の準備と作成のため
スペイン・・・>1620年代末に複数回 和平調停のため
イギリス・・・同上

その他の経験
1590年 アウデナールデのマルゲリット・ドゥ・ラレン伯爵婦人の下で小姓 [ix]
1610年以来 幼友達 バルタザール・モレテュス [x] のために本の挿絵
1612年以来 銅版画のための下絵<
1616年以来 タペストリーのための下絵
1623〜1633年 イザベラ妃/イギリス国王チャールズ一世/スペイン国王フィリッペ四世のための外交官
1629年以来 枢密院秘書
1634〜1635年 枢機卿フェルディナンドのアントワープ入城 [xi]に際しての市内装飾の総指揮


主な作品
1604〜1605年 マントヴァ公ヴィンセンゾ・ゴンゾーラの注文によるマントヴァのイエズス会教会のための「聖三位一体」

1609年 アントワープにおける最初の注文:アントワープ市庁舎内の12年の休戦調停が締結された部屋のための「東方の三王」

1610〜1611年 聖ワルブルギス教会とコルネリウス・ファン・デル・ゲエエストの注文による 「十字架を立てる」(キリスト昇架)

1611〜1614年 聖母大聖堂内の火縄銃ギルド礼拝室のための「十字架から降ろす」(キリスト降架)

1620年 アントワープのイエズス会教会のための39枚の天井画 [xii]の契約

1622年 リュクサンブール宮殿を飾るためのマリー・ド・メディシスと夫アンリ四世の生涯を描いた連作と

マリーの息子ルイ13世のための12枚のタペストリー連作「コンスタンスの歴史」との フランス大皇后マリー・ド・メディシス [xiii]との契約

1624年 アントワープの聖ミカエル修道院のための「東方の三王 [xiv]

1625〜1626年 聖母大聖堂のための「聖母被昇天」

1625〜1627年 イザベラ妃からの デスカルザス・レアレス修道院のためのタペストリー連作「聖体拝領の勝利」の下絵

1629年 イギリス王チャールズ一世の注文による ロンドンのホワイトホール宮殿の宴会場の天井装飾。1636年に完成。

1630〜1632年 友人であり義父であるタペストリー商人 ダニエル・フルマンのためのタペストリー連作「アキレスの生涯」の下絵 

1636年 スペインの狩猟館「トレ・デ・ラ・パラダ」の装飾のための60枚の連作「オシディウスの変容」。 このスペイン王フィリッペ四世による注文は私が今までに受けたもので最も大きなもの。


その他
言語:オランダ語/フランス語/ドイツ語/イタリア語/スペイン語/ラテン語

肩書き:「高貴な大公家の貴族」(1624)/イギリス国王チャールズ一世からのナイト(1629年)/スペイン国王フィリッペ四世からナイト(1631年)

会員:
1598年 アントワープ聖ルカギルド 自由親方
1609年 イタリアに滞在したことのあるアントワープの芸術家によるロマニスト [xv]ギルド
1629年 ケンブリッジ大学 名誉学位
1633年 聖ルカギルド 名誉会員
1640年 ローマ聖ルカアカデミー名誉会員
既婚男性による聖母兄弟会 会員


1640年3月6日


☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


ルーベンスのサイン
ルーベンスのサイン

☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


この履歴書の作成後 1640年5月30日にルーベンスは亡くなっています。


1641年2月3日に 最後の子 カタリーナ・アルベルティーナが洗礼を受けました。


☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


ルーベンスの家系は その後
18世紀末に途絶えています。


ルーベンス生誕四百年記念メダル




[i] 日本では(ドイツ語読みの)ルーベンスが一般に通用していますが 現地のオランダ読みではリュベンスとなります

[ii] ラテン語表記

[iii] 英語表記

[iv]スペイン語表記

[v] イタリア語表記

[vi] ベルギーでは 昔から今日に至るまで 夫婦別姓です

[vii] アントワープ市の行政官の娘

[viii] タペストリー商人の娘

[ix] この小姓時代に 後年外交使節として貴族たちと触れ合う際の礼儀作法を学んだとされています

[x] Balthasar Moretus プランタン・モレテュス家の三代目

[xi] このためにルーベンスの設計により作られた入城門はアントワープに現存しています

[xii] 1621年に完成したこの教会の回廊の天井画として制作されましたが
この教会が1718年に落雷のために火事となったときにそのほとんどが焼失しています

[xiii] マリア・デ・メディチとしてメディチ家に生まれ フランス国王アンリ四世に嫁ぐ。ルイ13世の母。

[xiv] 聖ミカエル修道院は アントワープ城壁内にあった修道院で
その主祭壇のためのこの作品は 現在アントワープの王立美術館に収められています

[xv] 16世紀はじめからフランダースの画家たちは イタリアに行き勉強するのが一般的でした。
その様なイタリアに行ったことのある芸術家を「ロマニスト」と言いました。



☆a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★a☆dog☆of☆Flanders★


このページの初めに戻る

トップページへ
目次へ
前のページへ
次の項目へ