小説「フランダースの犬」の中のルーベンス




 この傑出した巨匠の偉力は今でもアントワープの町に残っています。
狭い道に入り込んでもどこででもルーベンスの栄光がそこかしこに感じられます。
そして、どんなつまらないどんないやしいものでも、ルーベンスの栄光によって変容するのです。
曲がりくねった道を進むとき、淀んだ運河の水のそばにたたずむとき、そして騒がしい中庭を過ぎるとき、
ルーベンスの魂が私たちと共にいて、ルーベンスの堂々とした美の幻影が私たちのそばにあります。
そして、かつてルーベンスの足取りを感じ、ルーベンスの影を映した石だたみは、
今にも起きあがって生き生きした声でルーベンスについて声高く語り出すように思われるのです。
ルーベンスのお墓があるというだけで、アントワープの町は今でも有名なのです。

その大きな白い墓の近くは、とてもひっそりと静まり返っています。
ときおりオルガンの音や聖歌隊が「たたえよ、マリア」や、「主よ、あわれみたまえ」を歌う音が聞こえるのを除いては。
ルーベンスが生まれたアントワープの町のまん中に位置する聖ヤコブ教会の内陣にある、
あの真っ白な大理石でできたお墓以上に立派なお墓を持つ芸術家はこれまで一人としてありませんでした。

 ルーベンスがいなければ、アントワープの町は何だったというのでしょうか?
波止場で商売をする商人を除いて誰も見たいとは思わないような、薄汚くて陰気で騒々しい市場町にしか過ぎません。
ルーベンスによってこそ、アントワープの町は、世界中の人々にとって、
神聖な名前となり、神聖な土地となり、芸術の神様がこの世に生まれたベツレヘム (イエス・キリストが生まれた地名)となり、
芸術の神様が亡くなったゴルゴダ(イエス・キリストが亡くなった地名)となったのです。

世界中の皆さん! あなたがたは国に生まれた偉人を大事にしなければなりません。
というのは、未来の人は、偉人によってのみ国を知るからです。この時代のフランダースの人たちは賢明でした。
ルーベンスが生きている間、アントワープの町は、アントワープが生んだ最も偉大な息子に名誉を与えました。
そして、ルーベンスの死後は、アントワープの町はその名前を賛美します。

けれども、実を言うと、フランダースの人たちがこのように賢明だったことは、めったにありませんでした。


ゴッホが描いた 1880年代のアントワープの港
ゴッホが描いた 1880年代のアントワープの港


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ネロはうっとりと心を奪われた様子で主祭壇の「聖母被昇天」の絵の前にひざまずいていました。
ネロはパトラッシュに気がつくと、起きあがって、やさしくパトラッシュを外に連れていきましたが、その顔は涙で濡れていました。
そして、覆いのかかった二枚の名画の前を通り過ぎる時、それを見上げ、パトラッシュにつぶやきました。
「あれを見られないなんて、ひどいよ、パトラッシュ。
ただ貧乏でお金が払えないからといって!
ルーベンスは、絵を描いたとき、貧しい人には絵を見せないないなんて、夢にも思わなかったはずだよ。
ぼくには分かるんだ。ルーベンスなら、いつでも、毎日でも絵を見せてくれたはずだよ。絶対そうだよ。
なのに、絵を覆うなんて!あんなに美しいものを、覆って暗闇の中に置いておくなんて!
金持ちの人が来てお金を払わない限り、あの絵は光に当てられることはないんだよ。誰もあの絵を見る人はいないんだよ。
ああ、もし、あれを見ることができるのなら、ぼくは喜んで死ぬよ。」

けれども、ネロはその絵を見ることができませんでした。
そして、パトラッシュはネロを助けることができませんでした。
というのは、教会が「十字架を立てる」と「十字架から降ろす」の名画を見るための料金として要求している銀貨を得ることは、
大聖堂の尖塔のてっぺんによじ登ることと同じくらい、二人の手に余ることでした。
二人には、節約する小銭さえありませんでした。ストーブにくべる少しばかりの薪や、なべに煮るわずかのスープを買うことが精一杯でした。
それでも子供の心は、何とかしてあのルーベンスの二枚の名画を見たいものだ、というあこがれに満たされていました。


ルーベンス 「聖母被昇天」(聖母大聖堂内)
ルーベンス 「聖母被昇天」(聖母大聖堂内)


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ネロのまぶたに浮かぶものは、ただ「聖母被昇天」の絵に描かれたマリア様の美しい顔でした。
マリア様は、波打つ金髪が肩にかかり、永遠に輝く太陽の光がひたいを照らしていました。


ルーベンス「聖母被昇天」(聖母大聖堂内)部分
ルーベンス「聖母被昇天」(聖母大聖堂内)部分


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おじいさんには毛皮のついた、紫色の服を着せてあげて、聖ヤコブ教会の礼拝堂にある、「聖家族」の絵の中の老人のように描こう。
それから、パトラッシュには、金の首輪をかけてやって、自分の右側に座らせて、みんなにこう言おう。
「かつて、この犬がわたしのただ一人の友でした。」と。

それから、大聖堂の尖塔がそびえて見えるあの丘の斜面の上に、大きい白い大理石の宮殿を建てて、すばらしい庭園を造ろう。
でも、自分で住むのではなくて、何か立派なことをしたいと志している、貧しく友人の無い若者たちを呼び寄せて住まわせてあげるために。
そして、若者たちがぼくを賛美しようとしたら、いつもこう言おう。
「いや、感謝するなら私にではなく、ルーベンスに感謝してください。ルーベンスがいなかったら、私はどうなっていたか分からないのですから。」


ルーベンス「聖家族」または「聖母子を囲む諸聖人たち」
ルーベンス「聖家族」または「聖母子を囲む諸聖人たち」


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