聖母大聖堂 Onze-Lieve-Vrouw Kathedraal




アントワープ聖母大聖堂 アントワープ聖母大聖堂


アントワープ旧市街に聳え立つ
アントワープの町の守護聖人である聖母マリアに捧げられたゴチック様式の大聖堂。
1352年から1521年までかけて建設されました。
ただし 大聖堂となったのは1559年のことで
ですから 大聖堂としてでは無く
地区教会の聖母教会として建てられたものです。

Onze-Lieve-Vrouw オンゼ・リーヴェ・フロウというのが
聖母マリアのことですが
直訳すると 「私たちの・愛しい・女性」 ということになります。
フランス語地域で 「ノートルダムNotre Dame」という言い方をしているのと同じことです。
昔は(第二次世界大戦前までは)ベルギーでもっとも一般的な女性の名は
「Mariaマリア」でした。
しかし(あるいは だからこそ)聖母マリアのことを「マリア」と呼ぶことは
(不敬ということで)はばかられたので このような言い方をするようになりました。
(ただし 「聖母」という言い方はカトリックのもので
プロテスタントはキリスト以外の聖人は認めていませんから
「聖母」ではなく 単に「マリア」です。)

大聖堂 Cathedralという言葉は
Cathedraというラテン語からきていますが これは司教の座る椅子を意味しています。
ですので 大聖堂とは 司教座のある教会のことです。
カトリックの地域では 「司教区」「教区」というような地区分けがなされています。
それぞれの信者は 住んでいる家の近くの教会に通いますが それが「教区」です。
(日本の小中学校の学校区のようなものです。)
教区よりももっと広い範囲を纏めたのが「司教区」であり
司教という肩書きを持った司祭によって治められています。
(日本語の「大聖堂」という言い方は あたかも大きさを表しているようですが
本来は教会の格を表す言葉だということになります。)
ベルギーには今 8つの司教座があり その内の一つが アントワープです。
1559年に(新教・旧教の対立から)ローマカトリックの組織再編があり
その時に大聖堂に昇格しました。
しかし その後 フランス統治(ナポレオン)の時代に 再びローマカトリックの組織が変えられて
1801年に地区教会に格下げになりました。
1961年にまた大聖堂に格上げされました。


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この教会建築自体は 低地地方=オランダ語地域(=オランダ+フランダース)において
最も大きなゴチック様式の建物になります。

長さ 124m

幅 65m

内陣の高さ 27m

交差部の高さ 43m

塔の高さ 123m

柱の数 142本

窓 128面 (その内 54面がステンドグラス)


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外観を一目見て
尖がった高い塔(北側の塔)が目立ちますが
123mの高さがあるこの塔は 低地地方=オランダ語地域(オランダ+フランダース)で最も高い塔です。

ただし この塔は大聖堂のものではありません・・・
この建物の中の この塔だけはアントワープ市のものです。
なぜならば この塔は鐘楼(警鐘を吊り下げた見張り塔)として市によって使われていたからです。
615段の階段を登っていくと 32km離れたところまで見ることが出来ます。
この塔は フランダース地方の鐘楼の一つとして UNESCOの世界文化遺産に登録されています。


アントワープ聖母大聖堂正面
アントワープ聖母大聖堂正面


この塔には
8つの警鐘(計20d)と 47個の鐘からなるカリヨン(計22d)とがあります。
幾つかとても古い鐘が残されていて
最も古い鐘は 1316年に作られたOridaオリダというもので
嵐・火事・非常時に鳴らされたものです。
この鐘は1459年にGabrielガブリエルにとって代わられました。
ガブリエルは今でも 毎時時を告げています。
1465年に作られたDrabbeドラッベは泥棒を知らせる時の鐘でした。

昔は 鐘は教会のすぐそばの場所で
(この大聖堂の場合には 南側のGroenplaats緑広場で)
鋳造されるのが普通でした。
そして 完成した鐘は 野次馬が固唾を呑んで見守る中 外側から塔に上げられました。

以前は 南塔(=正面から見て右側の未完成の塔)にも カリヨンがありました。
北塔のカリヨンは市のもの 南塔のものは教会のもので
市と教会とは 競ってより素晴しいカリヨンを持とうとしました。
南塔には 「カリヨンのストラディヴァリ」と称されたカリヨン作りの名手
ヘモニー兄弟のカリヨンがあったのですが 教会は収入のために売却してしまいました。


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西側の正面の側に立ってみましょう。

この三角形の広場は Handschoenmarkt手袋広場と呼ばれています。
以前は大聖堂の土地で 今の建物が建つ前のまだ小さな教会だった頃には墓地でしたが
その後広場となり ここで一年に幾度か 皮革製品を売る市が開かれていました。
その市の時に 店子から出店代を取って教会の収入にしていたのです。

この広場に ネロとパトラッシュの記念碑があります。
2017年の12月に作られたもので 広場に横たわった犬らしき動物と
その上の頭の大きな少年に 石畳の布団が掛けてある像です。
(死んだはずなのに寝ているような 飢えで死んだはずなのに随分と健康そうな・・・)
以前この広場にあった記念碑は 2003年に作られたもので
日本語・オランダ語・英語で ほぼ同じ内容の文章が書いていましたが
新しい記念碑の設置に伴って これは撤去されました。

この西側から見ると
北側の塔(向かって左側)と 南側の塔(向かって右側)との違いがはっきりと分かりますが
そもそもは 左右対称の二本の塔を建てるはずでした。

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アントワープ聖母大聖堂 当初の完成予想図

南側の塔は1430年から建設が始まりましたが 1475年に中止されます。
北側の塔はその後も建設が続けられて 1492〜1521年の間に
最上部の八角形の部分が載せられました。

南側の塔のみが このように中途半端な高さで建設が終わったのには 二つの理由があります。
一つ目の理由は 財政難です。
もう一つは 北側の塔を鐘楼(=見張りの塔)として使いましたので
もう一つ同じ高さの塔を建てると死角が出来てしまう いう理由からです。

BruggeブルージュやGentゲントには 鐘楼として独立した建物がありますが
BrusselブリュッセルやAntwerpenアントワープには
そのような独立した建物としての鐘楼はありません。
これには理由がj二つあります。
一つは 鐘楼はフランダース伯爵領のものであり
ブルージュやゲントはそもそもフランダース伯爵領ですけれども
ブリュッセルとアントワープは フランダースでは無くてブラバント公爵領であったこと
そしてもう一つは
アントワープが繁栄したのが ブルージュやゲントよりも遅く
その頃には独立した鐘楼を建てるのは流行遅れになっていた為です。
(しかし 機能的な意味での鐘楼 つまり警鐘付きの見張りの塔自体は必要でしたので
アントワープの場合には大聖堂の塔が ブリュッセルでは市庁舎の塔が使われました。)

塔が七つの階層に分かれているのが見て取れるでしょうか?
キリスト教において重要な数は
「3」と 「7」と 「12」です。
ですから それらの数が 教会建築のどこかに使われていることがあります。
「3」は 「三位一体」の数です。
「7」は 人生における七つの秘蹟/聖職者の七つの階層/七つの慈悲 などに表れています。
(7を重要視するのは プレアデス星団が「七つの星」と呼ばれることと
人間の身体のリズムが7日や7年を周期としていることと関係しています。)
「12」は 「完全」を表す数です。
(EUの旗が12の星なのも ここからきています。)
「宇宙の基本数」とされているからです。
聖書に最も多く表れる数でもあります。
かつ キリストと12人の弟子に代表される「1+12」というのも 重要な数です。
たとえば 銀河系の中の全ての太陽系システムは(私たちのいる太陽系も含めて)
全て 「1+12」つまり 恒星1個+惑星12個 の構成になっています。
それら キリスト教において重要な数である
「3」と 「7」と 「12」が 建物のどこかに見て取れるようになっています。

建物正面の中央部分(二つの塔に挟まれた部分)の最上部の三角の尖りから
左右の辺をそれぞれ右下と左下とに目で追って行くと
丁度 この建物正面底部の幅になっています。つまり
建物の幅を底辺とする 正三角形となっていて
「3」の数が象徴されています。

北側の塔を 下から上へと見てみると
上の方の階層にいくに従って
装飾が細かくなっているのが見えるでしょうか。
かつ それぞれの階層にあるアーチの形も違っています。
下の方の階層のアーチの尖がりに対して
上の方の階層のアーチの尖り具合は緩くなっています。
建築に長い年月がかかりましたので
その間に建築の指揮を執った建築家も替わっていきました。
また ゴチック様式と一言で言っても 時代と共にその形は変遷していきました。
ゴチック様式はそもそもは 「地上から天へ向かう」形として作られました。
ですから 「地から天への矢印」であり
そのために縦の直線を基調とし 横への膨らみや曲線が無い形となっています。
アーチもまた 天に向かうことを強調する 尖った形が使われました。
しかし 時代と共に このアーチの尖り具合が緩くなります。
なぜでしょうか・・・?
つまり 時代と共に 人々の信仰心が薄らいできた すなわち
人々の心が天の方に向かなくなった ということの現れです。
(ものの形や色には 無意識の内に 作った人の気持ちが反映されています。
様式というのは ある特定の土地・時代の人々の集合的な気持ちを反映したものです。)
時代と共に装飾性が豊かになるというのも
精神的なものから 物質的なもの(あるいは地上的なもの)へと人々の関心が移ったことの現れです。

塔の上の部分を見てみると(そこを見るにはもっと離れた場所からの方が見えやすいのですが)
石造りの素晴しい軽やかな尖塔になっています。
「ブラバント・ゴチック様式」の最高傑作とされているものです。
(ブラバント・ゴチック様式とは ブラバント公爵領で花開いた盛期ゴチック様式です。)
それ以前の尖塔は教会も鐘楼も このようにはなっていませんでした。
そもそも 「尖り」を建物で作るにはどうしたら良いのでしょうか?
石や煉瓦を斜めに積んでいくことはできません。
ですので 四角い石(あるいは煉瓦)造りの塔の上に 木造の尖がりを載せていたのです。

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左:アントワープ聖母大聖堂の石造りの尖塔/右:ゲントの鐘楼の木造の尖塔

しかし このアントワープの大聖堂の尖塔は それとは全く違っています。
つまり 全く違う発想で作ったのです。
「斜めにしないで尖らせる」という。
この塔は 四角形の塔の上に それよりも細い八角形の部分が載せられていて
更にその上に もっと細い十六角形の部分が載せられています。
そのようにして だんだんと細くすることで「尖り」を作っているのです。
そして それらの部分はまるでレース編みのように見える 軽やかな外観の作りとなっています。
このような建築は「石で編んだレース」と称されています。


西出入り口の大きなアーチには
沢山の細かい彫刻や人物像が施されていますが
これは 20世紀初めに付け加えられたものですので
ネロたちの時代には 無いものでした。
(この部分のアーチの尖り具合が最も緩いことから 最も新しい部分であることが分かります。)

アントワープの最も重要な聖人 すなわちアントワープにキリスト教を伝え広めた聖人たちの像があります。

Sint-Eligius聖エリギウス(590〜660頃)

Sint-Amandus聖アマンドゥス(594〜675頃)

Sint-Willibrordus聖ウィリブロルドゥス(658〜739)

その上には キリスト像と最後の審判があります。


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建物に入る前に この教会建築の歴史に触れておきます。

今現在の大聖堂の建物以前に
1132年から建築が始まった ロマネスク様式の建物がありました。
更に遡ると
9〜12世紀にすでに聖母礼拝堂があったらしく それが
1124年に 小教区教会となります。
これらの全てを取り壊して
1352年から今の大聖堂の建物の建設が始まります。
(後に 地下に僅かですが ロマネスク様式の部分が発掘されました。)

1352〜1411年の間に 内陣と回廊とが建てられました。
1430〜1469年の間に 身廊部と塔の基部が建てられました。
1458〜1492年の間に 西側の面と回廊の外側の礼拝室が建てられました。
そして 1492〜1521年に塔が完成されます。
しかし 1521年に完成したのですが
更に拡張して 今現在の三倍の大きさにする計画が立てられて
同じ年にすでに 主祭壇になる部分から建築工事が始められました。
(大聖堂周辺にはその痕跡が今でも残されています。)
けれども 1533年に起きた火災で(塔と内陣以外の全てが焼けました)
その増築計画は終わりになってしまいました。

時代と共に 外側の形も変わりましたが 内装も時代によって変えられていきました。
1559年に地区教会から大聖堂に昇格になりますが
1566年の 聖像破壊運動と
1578年〜1585年の新教(カルヴァン派)政権の時期と
内装はかなりの損害を被ります。
17世紀に入って 再び反宗教改革派によって内装が整えられます。
(その最も重要な一人がRubensルーベンスです。)

フランス統治の時代には 美術品等は全て取り払われて 軍の倉庫として使われました。
また この時代に 重要な美術作品は没収されてフランスへと運ばれて行きました。
19世紀末からの修復・改築によって ネオ・ゴチック様式の部分が付け加えられました。
1965年からの30年に及ぶ修復工事で
この建物のそもそもの状態や 中世の建築工事の様子などが明らかにされました。


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それでは 中に入ってみましょう。

アントワープ聖母大聖堂内部 中央身廊
アントワープ聖母大聖堂内部 中央身廊

まず 内部に入っての第一の印象は
「明るい」ということではないでしょうか。
他の国のコチック様式の教会の中は この様に明るくはありません。
フランスやドイツのコチック様式の教会の中は とても暗いのに対して
この大聖堂の中は まるで別世界のように明るく建てられています。
どうしてでしょうか?
上部を見てみると
中央の身廊の窓には 一部にしかステンドグラスがありません。
ステンドグラスが少ないことから 光が沢山入ってきて明るいのです。
教会とは 「神の家」です。
神の家は天国にあります。
ですから 教会の中は天国です。
天国とは 光で満たされているところです。
教会=神の家=天国=光の国 ということを表すために
教会の中を明るくしているのです。
(ここだけでは無く ベルギーの教会建築の共通した特色です。)
逆に 他の国のゴチック様式の教会は
ステンドグラスですっかり覆われてしまっているので内部が暗いのです。
ではどうして その様に建てたのでしょうか?
この地上で光を象徴している物質は 宝石です。
なぜなら きらきら光るからです。
そして 宝石には いろいろな色のものがあります。
ですので いろいろな色のガラスを使ったステンドグラスで
宝石の代わりとして 光を象徴させることによって
教会内が天国=光の国であることを表現しようとしているのです。
しかし そのために教会内部が暗くなってしまいました。
晴れていて 日の光が燦々と差していれば
ステンドグラスを通して入ってきた光は
とても綺麗な模様を映し出します。
(それを「光の林檎」と言います。)
しかし ここフランダース地方は
(特に冬の間)晴れることは少ないですから
その様な構造をとった場合 いつでも内部は暗いことになってしまいます。
この大聖堂は ステンドグラスですっかり覆わない という建て方によって
内部を明るくし
それによって (直接的に)
教会内が天国=光の国であることを表現しようとしているのです。
ちなみに 他の国のゴチック様式の教会内部が暗いのには
もう一つ (無意識に)キリスト教の姿が現れています。
その様な 暗く 閉ざされた空間を作ることによって
キリスト教カトリックが
(その語源である カトリコ=普遍 という意味とは全く逆に)
沢山の「制限」を作り出すことによって成り立っていた
ということが象徴されています。


さて
この教会建築は 7つの身廊を持っています。
初めは5つの身廊で建てられたのですが
後に増築されて 七身廊になりました。
ヨーロッパ中で 七身廊の教会建築は ここだけです。

北ヨーロッパの教会建築は基本的に上から見ると十字架の形をとっていますが
この大聖堂は 身廊の数を増やしたために その形をほとんど留めていません。
つまり 十字架の縦の部分が太り過ぎてしまった ということです。

それによって とても広く作られている訳ですが
昔は(ネロの時代にも)椅子が置かれていませんでしたので
立って礼拝していましたが
この教会建築は 約2万4千人が一度に入れる大きさになっています。


柱が沢山立てられていますが 全部で142本あります。
このように柱が沢山立てられているのは
「柱の森」と言われていますが
これは 柱として広い天井を支えることだけが目的なのではなく
(この大聖堂の天井は 約1ヘクタールあります)
この「柱の森」=沢山の柱によって
建物の内部で なるべく一番外側の壁が見えないようにする
という目的があります。
なぜならば 教会とは「神の家」=「天国」であり
天国は無限の広がりのところだからです。
ですので 終わりが無い状態を
このような「柱の森」で表している訳です。


柱の一つ一つを見てみると
とてもすらりと上に向かっている感じがします。
これによって ゴチックの理念である
「心を天国に向ける」方向性がはっきりとしています。
ロマネスク様式から初期のゴチック様式では 柱の上部のアーチが始まる部分に「環」が付けられていましたが
この大聖堂の柱にはそれがありません。
この環を無くすことで 垂直性がよりはっきりするからです。

昔は
それぞれの柱に 祭壇が付けられていました。
この大聖堂には 回廊の外側に11の礼拝室がありますが
しかし 町の中心の教会に礼拝室や祭壇を持ちたいギルドや(金持ちの)個人は
その数よりもはるかに多かったですから
礼拝室を持てなかったギルドたちは
身廊部の柱に祭壇を付けて そこで礼拝していました。
祭壇を付ける柱の数を増やすために 5身廊から7身廊へと建て増しされたのです。

アントワープの聖母大聖堂の1605年頃の様子 OLVKathedraal_1630.jpg(94552 byte) OLVKathedraal_1648_PeterNeef.jpg(117512 byte)
アントワープの聖母大聖堂の 左:1605年頃/中;1630年頃/右:1648年の様子


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身廊を直進して
主祭壇近くまで進んでみましょう。
主祭壇に掲げられている絵が
Rubensルーベンスが1626年 49歳の時に完成した
「聖母被昇天」の絵です。

ルーベンス「聖母被昇天」
ルーベンス「聖母被昇天」

(「聖母被昇天」についての解説はこちらへ)

ネロは ほぼ毎日 この絵を見るために この大聖堂に入ってきていたようです。
この大聖堂の裏手に 今でもMelkmarktという道路名が残されています。
牛乳市場 という意味ですが
ネロとパトラッシュは 毎日そこに牛乳を売りに来て
そして帰りに大聖堂に寄って行ったようです。


ネロのまぶたに浮かぶものは、ただ「聖母被昇天」の絵に描かれたマリア様の美しい顔でした。
マリア様は、波打つ金髪が肩にかかり、永遠に輝く太陽の光がひたいを照らしていました。


天使たちに囲まれた聖母マリアの顔に
二歳の時に亡くした母親の顔を重ね合わせて見ていたのでしょうか。


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この大聖堂の身廊と翼廊との交差部で 上を見上げてみましょう。
この部分が 最も高く 43mの高さがあり 「祝福の塔」と呼ばれています。
(外から見ると 玉ねぎ形の塔が付いている部分です。)
その天井にも 「聖母被昇天」を描いた絵があります。
この絵は コルネリウス・シュヒュットという
ルーベンスよりも20歳若い画家の手によるもので
1647年に作られました。


聖母大聖堂交差部天井画「聖母被昇天」

聖母大聖堂交差部天井画「聖母被昇天」

直径580cmあるこの絵は
この当時の絵としては珍しく キャンヴァスに描かれています。
ルーベンス風のスタイルではありますが
ドーム状の天井を利用して
天国へと舞い戻っていった聖母の上昇感が非常に巧みに表されています。
今までに日本でアニメとして映像化された「フランダースの犬」では
そのいずれもで
物語の最後にネロとパトラッシュとがこの大聖堂の中で息を引き取る時に
この絵の中から天使たちが舞い降りてきて 彼らの周りを取り囲みます。
まさにこの絵は 地上から天へと繋がるかのように描き出されています。


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ステンドグラスを見てみましょう。
この大聖堂には
最も古いものとして1503年に作られたステンドグラスが二面残されています。
また 1500年代半ばから1600年代のもの幾つか残されてはいますが
ほとんどのものは1870〜80年代に作られたものです。
(色の鮮やかさで どれが新しいものかが分かるかと思います。)
ですので ネロがこの建物に来ていた時代(1860年代〜1871年)には
今あるステンドグラスの内のかなりのものがまだありませんでしたので
今とは随分と内部での印象が違ったと思われます。


聖母大聖堂ステンドグラス1503年

この 回廊北側の二面が 現存している最も古い1503年のものです。
左側が 「ブルゴーニュのステンドグラス」
右側が 「イギリスのステンドグラス」
と呼ばれているもので
それぞれ フィリップ美男王とカスティリアのヨハンナ夫妻
イギリスのヘンリー七世とヨークのエリザベス夫妻が描き出されています。

主祭壇の奥に スペイン国王フィリッペ二世とメアリー・チューダー夫妻を描いた1550年代のものがあります。
(このフィリッペ二世の統治の時代に アントワープは世界最大の商業都市としての繁栄を終えることになります。)

翼廊北側のステンドグラスは1616年のもので
ルーベンスの時代にアントワープを統治していた
アルブレヒト公とイザベラ妃とが描かれています。

身廊上部北側に フッガー家が寄贈した 16世紀(1537年)のものがあります。
「パウロの改宗」をテーマにしたものですが
最下部左側に アントン・フッガーが跪いています。
(アントワープ最盛期の統治者カール五世は 19歳で神聖ローマ帝国皇帝となるにあたって
フランスのフランソワ一世とその位を争いましたが
選挙権を持つ貴族=選帝侯たちにより多くの賄賂を贈ったカール五世がその位を手に入れることになります。
その為に カール五世はドイツのフッガー家から莫大な借金をし
その見返りとして アントワープの港での関税権を与えました。)


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「十字架を立てる」(「キリスト昇架」)
ルーベンス「キリスト昇架」
ルーベンス「十字架を立てる」(「キリスト昇架」)
(「キリスト昇架」についての解説はこちらへ)
ルーベンス33歳頃(1610年)の作品です。
ですので 若々しさがみなぎっています。


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ルーベンス「キリストの復活」
「キリストの復活」
ルーベンス34歳の頃(1611〜12年)の作


この絵が置かれているのは プランタン・モレテュス礼拝室です。
(注意! この礼拝室は「平和の礼拝室」と名付けられ
「平和のための祈りをする人だけが入っても良い」という但し書きがありますので
写真をパチパチ撮るために入るのは避けましょう。)

つまり プランタン・モレテュス家の礼拝室でした。
プランタン・モレテュス家とは
16世紀半ばにフランスから出てきて印刷工場を起こしたクリストフ・プランタンと
(それによって 史上初めて印刷が工業化されました)
その後それを発展させ 16世紀末から17世紀はじめ(ルーベンスの時代)には
世界最大の印刷工場にした 娘婿のヤン・モレテュスとの名からきています。
1610年に亡くなったヤン・モレテュスの未亡人が
この祭壇画をルーベンスに注文したようです。
ヤン・モレテュスの長男である バルタザール・モレテュス一世とルーベンスとは 共に
「既婚男性による聖母マリア兄弟会」の会員でした。
その様なことから親しくしており
プランタン・モレテュス出版所のために 本の挿絵も提供していました。

この絵は プランタン・モレテュス家の祭壇画として現在掲げられていますが そもそもは
ヤン・モレテュスとその妻マルティナ・プランタンの墓のための絵でした。
ですので 中央のパネルには テーマとなっている
「キリストの復活」が描き出されていますが
左のパネルには ヤン・モレテュスの守護聖人である洗礼者ヨハネが
右のパネルには 妻マルティナ・プランタンの守護聖人である聖マルティナが
描き出されています。
更に 閉じた時の面には
それぞれ 洗礼者ヨハネと聖マルティナとほぼ同じポーズの天使が描かれています。
この天使の描き方に
ルーベンスが イタリア美術にかなりの親しみを感じていたであろうことが伺われます。

中央のパネルに描き出されているのは
復活してきたキリストの大袈裟な登場の姿
左下に倒れている芝居がかったポーズの兵士たち
決まりきったような(不自然な)斜めの構図と
バロックらしさが充分に発揮されている
やや 安っぽい印象になっています。


この礼拝室の
「キリストの復活」の反対側の面の絵にも目を惹かれます。
下の方にある五枚の小さな絵は 第一次世界大戦の時の様子を描いたもので
大きな画面に描かれている 軍服姿の男性が その当時のベルギー国王アルベルト一世
看護婦姿の女性が エリザベート王妃です。
それぞれの背後に その守護聖人が描かれています。
ベルギーはこの当時永世中立国でしたが ドイツに攻め込まれてしまいます。
そして第一次世界大戦において 最も大きな被害を蒙った国になります。
(ですので 戦後そのベルギーを励ますために 第七回オリンピック大会はアントワープが開催地となりました。)

この絵は 国王夫妻がベルギーの安泰を聖母子に祈念している様子です。
この絵の表現に アール・ヌーボーの影響を見て取れます。


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「十字架から降ろす」(「キリスト降架」)

ルーベンス「キリスト降架」
ルーベンス「十字架から降ろす」(「キリスト降架」)
(「キリスト降架」についての解説はこちらへ)

ルーベンス35歳の頃(1612年)の作
ルーベンスの最高傑作の一つ
「キリスト昇架」の翌年の作品ではありますが
かなり違ったスタイルで描かれています。


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オルガン

この大聖堂には 大きなオルガンは二台あります。
一つは 建物西側の正面にある古いものです。
木の彫刻は 1654〜60年に作られたものを利用しています。
1889〜1891年に(この頃に亡くなった一人の老婦人の遺産で)改修され
パイプがすっかり替えられたこのオルガンは
オルガン製作者の名を取って 「シュヘイヴェン・オルガン」と呼ばれていましたが
また 「ロマンチック・オルガン」とも言われていました。
しかし老朽化してパイプの鳴りが悪くなったので
2016年に全てのパイプが新しく付け替えられました。

90のストップ(音色を変えるための栓)と 5770本のパイプがあります。

もう一台は回廊南側入り口の上部にある新しいもので
やはり オルガン製作者の名を取って
「メツェレル・オルガン」
あるいは 「バロック・オルガン」
と呼ばれています。
こちらは 3322本のパイプを持っています。

古い 「シュヘイヴェン・オルガン」が
後期ロマン派の時代に作られた
華やかな音色の音楽を得意としているのに対して
新しい「メツェレル・オルガン」は
バロック音楽の演奏のために作られたものです。
夏季に開かれる オルガンコンサートでは
曲目によって この二台のオルガンは使い分けられています。


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その他にも この大聖堂内には
様々な美術品がありますし 装飾があります。
それらは 約五百年前に完成してから今日までの
様々な時代様式のもの
(ゴチック/ルネッサンス/バロック/ロココ/古典/ネオ・ゴチック/アール・ヌーボーなど)
からなっています。
つまり ゴチック様式の建物の中に
様々な様式のものが置かれている ということは
統一が取れていない ということでもあります。
本来は 様式が違ってはいても
「(キリストへの)信仰心」という点で 統一が取れているはずなのですが
しかし その信仰心の変化が 新たな時代様式を生み出しているのですから・・・


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